日本人村
Ayutthaya,Thai land、2006/11/14撮影



アユタヤは1350年から1767年まで、417年間タイ王国の首都だった。16世紀後半より外国人の
渡来者が漸増した。彼等は貿易や布教に従事したり、義勇兵として王朝に仕えた者も居た。 
当時の徳川幕府は外国貿易に従事する許可書・朱印状を発行して貿易を奨励していたが、
中には朱印状を持たず東南アジア方面に出かけていた者も多い。しかし、貿易船で首都アユタヤ
に来た者は諸外国の人達と同様に国王から居留地を与えられていた。当時のアユタヤには
東インド会社のオランダやイギリスをはじめ、世界40ヶ国からの商人が集まる国際都市でした。
 アユタヤには時代により異なるが800人から3000人の日本人が居たと伝えられ、その従業員
(タイ人や近隣諸国人)を合わせると、数千人の人が日本人町を構成していたと言われる。
そして、その首領としてオークプラ・スミヒロ(越前丸岡城主の次男で朱印状を持参した有馬純広
(1600年-1610年))、城井九右エ門(1610年-1617年)、山田長政(1617年-1630年)、糸屋多右エ門、
平松国助(1633年-1640年)、木村半左エ門、アントニオ善右エ門(1640年-?)の名前が挙げられている。
中でも、山田長政(現・静岡県伊豆の国市伊豆長岡町出身)は日本人義勇隊長として実力者となり、
ソングタム王の寵愛を受け、オークヤー・セナピムックの爵位を授けられた。1628年、王の死後、
山田長政は二人の王子に忠誠を尽くしたが南タイのナコム・シータマラートに起こった反乱で都を離れ
反乱軍を平定し、同地の太守とまでなったが、程なく毒殺されてしまった。                .
その後、日本人町は衰退をして行ったと言う。1935年(昭和10年)バンコクに設立された泰日協会が
オランダの東インド会社の文献に基づき、日本人町跡を発見し、同地に日本人村・泰日協会展示館
建設やアユタヤ歴史研究センター(別館)管理を行って来ている。                    .




アユタヤに行くまでの間は、数日前に降ったらしい大雨で洪水状態だった。
田畑が一面水没している。道路だけは辛うじて水面より高い。












かっては大勢の人が住んでいたらしいので、「村」ではなく、「町」だったらしい。












山田長政像お賽銭箱の隣にエイズ撲滅救済基金の募金箱が
あるのがタイの現状を表している。なんとも複雑な環境なんだ。





日本人村のイメージ模型






この船で日本からやって来た






敷地横にはチャオプラヤー川が洪水後の多い水量で流れている。












椰子の木にはこんな注意書きがある。(◎_◎)




















    

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